三つ折れ人形
…人形の関節の部分、脚の付根と膝と足首が自由に折れ曲がるよう工夫したものである。足だけでなく手も自由に動き、立ちもすれは座りもする。姿態に変化の多い御所人形がその自由さを求めて一歩前進したものだが、衣裳を着せ替えて、立たせたり座らせたりして女の子が遊ぶのに向いているので、この手法は御所人形よりは、愛玩用の衣裳風俗人形の方へ多く使われて発達した。(市松人形は、これの簡便なもので、手足と胴を縫いぐるみでつなぐ。動かせるが一人立ちは出来ない。)御所人形
御所人形はいつごろに始まるかは、はっきりしない。その源流は裸の幼児を型取った白絹のぬいくるみの這子(ほうこ 天児のように魔除けにした)であるとも、また嵯峨人形の中の裸形の幼童、裸嵯峨とよばれるものではないかともいわれている。優れた御所人形の遺品は、…いずれも江戸中期以後の作で、江戸初期となると確証のあるものはないらしい。…それが全国へ流布されたのは、参勤交替に江戸へ行く西国大名が京都を通る際、それぞれ御所や公家に挨拶として贈り物をする習慣があり、それに対する返礼として御所人形を届けたのが、珍重されて広まったという。
…古いのは五等身位で、後に三等身が特色になったのである。また、裸形か腹掛けをつける程度が本来のようだが、衣裳を着たのもあり、それも能衣裳が多かったので能人形の名もあった。素地も、はじめは土人形だったらしいが、発達するにつれて木彫胡粉塗りとなり、さらに需要がふえると、多量生産の必要から型抜きのものも出来た。加茂人形
…嵯峨人形のように彩色せず、衣裳部分は有職織物の残り裂れや古裂れを貼りつけたもの、別名切め込み人形ともいい、衣裳を着せ付けた人形と違い、いつまでも着崩れしないので歓迎された。…これも嵯峨人形とともに、その伝統は絶えたが、切め込みの手法は現在、木彫以外の桐塑人形などにも広く応用され、切め込み人形の名で行なわれている。嵯峨人形
…道釈人物を中心に女性や市井風俗も写した、木彫りに盛り上げの極彩色を施し、金箔なども用いた華麗なもので、人形らしい人形として最も古いし、立派な遺品もある。確証はないが北嵯峨に住んでいた仏師たちが、応仁の乱後の戦国の世に仕事がなく、その技術を生かして、人形を創りはじめたといわれ、それにふさわしい技術と風格を持っている。しかし幕末に衰え、伝統としては絶えた。(いま嵐山で見かけるのは、その復興運動であろう)次郎左衛門雛
京都の人形師岡田次郎左御門の創作である…有職雛
…高倉雛とよばれたりするように、御所の有職の家柄、高倉、山科両家の内裏雛の装束を正しくしたもの。―「日本美術工芸」昭和40年4月1日発行 319号
「日本の工房<11> 御所人形」(村松 寛著)より抜粋―